料理は、誰のためにあるのか。25年間で深まった「食べ手優先主義」
- restaurantequilibr
- 1 日前
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前回は、20年ほど作り続けてきたトウモロコシの冷製ポタージュが、捨てていた芯とヒゲを使うことで、少しずつ今の形へ変わっていった話を書きました。
鶏のブイヨンで旨味を補うのではなく、トウモロコシ自身が持っている甘みや香りを引き出す。その変化は、単にレシピを変えたというだけではありません。
振り返ってみると、そこには僕が料理人として長い間考え続けてきた、もう一つの問いがあります。
料理は、誰のためにあるのか。
料理人にとって、料理は自己表現でもあります。自分が美しいと思う構成、自分が使いたい技術、自分が届けたい味。そのすべてを否定するつもりはありません。
けれど、料理は料理人の思いだけで完結するものなのでしょうか。
〜〜食べる人のいない料理はない〜〜
若い頃は特に、自分が学んできたことや、自分にしか作れないものを、一皿の中で表現したいという気持ちが強くありました。
けれど、料理は作品として皿の上に置いた時点で完結するものではありません。その先には、必ずそれを食べる人がいます。
どれほど考え抜き、技術を注ぎ込んだ料理であっても、食べる人の心に響かなければ、その料理はまだ完成していない。僕は、そう感じています。
これは、地方で独立してから初めて生まれた考えではありません。振り返れば、結婚式場で料理を作っていた頃から、僕の根底にあったものでした。
〜〜 結婚式でしか作れない料理を求めて〜〜
結婚式場の料理は、価格帯の異なる三つほどのコースから一つを選ぶのが一般的です。
僕が働いていた式場も基本は同じでしたが、僕はそこに完全オーダーメイドという選択肢を加えました。料金も、最も高いコースとさほど変わらない程度に設定しました。
料理人の世界では、結婚式場の料理はレストランより格下に見られることがあります。けれど僕は、一概にそうは思いませんでした。レストランにはレストランの良さがあり、結婚式には結婚式の良さがある。
結婚式にやり直しは利きません。その日、その二人のためだけに作る、一生に一度の料理です。だからこそ、レストランでは絶対にできない料理を追求したい。その答えが、完全オーダーメイドでした。
新郎新婦と話をし、二人がどこで出会い、どのような土地で育ち、どんな思いで結婚式を迎えるのかを聞く。そして、その背景を料理として形にする。単に二人の希望をそのまま皿に置き換えるのではなく、その日の料理がどのような役割を果たすべきなのかを考え、自分が身につけてきた技術と経験を使って、一つのコースを作り上げていました。
主役は、料理人ではありません。
新郎新婦であり、その二人のために集まった人たちです。
僕の技術や感性は、その人たちにとって最もふさわしい料理を作るためにある。
僕にとっての「食べ手優先主義」は、この頃からすでに料理の根底にあったのだと思います。
〜〜地方で独立し、あらためて気づいたこと〜〜
独立して自分の店を持つと、自分が選んだ食材を使い、自分が良いと思う組み合わせや世界観を、より自由に一皿へ込められるようになります。それは、自分の店を持つ大きな意味の一つです。
けれど、こちらが良いと思って作った料理をお出ししても、お客様の表情や、その場の空気に小さな「ハテナ」を感じることがありました。
料理として間違っているわけではない。技術的にも成立している。
それでも、自分が伝えたかったものと、お客様が受け取ったものの間に
わずかな距離がある。
そのとき僕が考えたのは、地方のお客様に料理が理解されないということではありませんでした。
自分が作りたいものを優先するあまり、目の前で食べてくれる人を置き去りにしていなかっただろうか。料理人である自分の側からしか、皿を見ていなかったのではないか。
婚礼料理の頃から持っていた「相手ありき」という感覚が、自分の店を持ったことで、もう一度はっきりと問い直されることになりました。
〜〜「食べ手優先」は、迎合することではない〜〜
僕のいう「食べ手優先主義」は、お客様の好みにすべて合わせることでも、言われた通りの料理を作ることでもありません。自分の考えを曲げて、誰にでも分かりやすい料理を出すという意味でもありません。
料理を食べる人には、その人なりの背景があります。その日この店へ来た理由があり、誰と、どのような時間を過ごしたいのかという目的があります。
その背景を理解したうえで、何を作るべきかを判断するのは料理人です。相手がいるからこそ、自分の技術や感性を何のために使うのかが明確になる。だから僕の中では、食べ手を優先することと、料理人としての表現は対立するものではありません。
〜〜 足すことから、引き出すことへ〜〜
トウモロコシの冷製ポタージュも、その延長線上にあります。
以前は、鶏のブイヨンを使って旨味を重ね、料理としての厚みを作っていました。それも、フランス料理として正しい方法です。
けれど、芯やヒゲから出汁を取るようになり、外から旨味を加えなくても、トウモロコシの中にあるものだけで十分においしいポタージュを作れることに気づきました。
何かを足して技術を見せるよりも、素材が持っているものを、食べる人が最も素直に感じられる形へ整える。
作り方の背景も先には説明せず、まず一口食べてもらう。何も知らない状態で料理そのものを受け取ってもらうことにも、食べる人の感覚を大切にしたいという僕の考えが表れています。
〜〜 シンプルにすることが、最後には一番難しい〜〜
料理人として約25年働く中で、さまざまな技術を学び、経験を積んできました。
その先で、今は料理をできるだけシンプルにしたいという思いが強くなっています。
ただし、シンプルにすることは、技術を減らすことではありません。要素を減らせば減らすほど、ごまかしが利かなくなります。素材選び、火入れ、塩、香り、タイミング。その一つひとつが、料理の味としてそのまま表に出ます。
その先に僕が思い描いているのは、大きな鹿肉を塊のまま薪火で焼き、丸ごとの野菜を熾火で蒸し焼きにするような料理です。
ソースや装飾を重ねて見せるのではなく、小細工をせず、素材と火に正面から向き合う。
一見すると、とても単純な料理に見えるかもしれません。けれど、自然の火は完全には制御できません。素材も一つとして同じではない。その瞬間の状態を感じ取り、積み重ねてきた経験のすべてを使って、一番良いところへ導かなければならない。
料理人として25年間培ってきたものを捨てるのではなく、そのすべてを料理の内側に沈め、最後に本質だけを残していく。
僕にとって「シンプルにする」ということは、おそらく最後にたどり着く、最も難しい料理なのだと思います。
〜〜料理は、食べる人との間に生まれる〜〜
素材があり、それを料理する人がいて、それを食べる人がいる。料理は、その三者の間に生まれるものだと思います。
婚礼料理を作っていた頃も、地方で自分の店を始めてからも、その根底にあるものは変わっていません。経験を重ねる中で、その考えがより深く、よりはっきりと自分の中に見えるようになりました。
料理は、誰のためにあるのか。
僕にとって、その答えは今も変わりません。
食べてくれる人のためにある。
そして、その人に届けるために、自分がこれまで培ってきた技術と感性のすべてを使う。それが、僕の料理に対する姿勢です。





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